昨日は10年以上付き合いがある葬儀屋の社長さんに法友が11月から遠壽院荒行堂に入るので某寺に出奔したお詫びに行きたいがどうしたものかと相談した処某寺で葬儀屋さん主催の供養会を開くというので同席をとお誘い頂いて参列してきました。
心から無礼をお詫び申し上げてきました。
自分が今ここに生きている土台を作って頂いた場所でもありますしここの経験が無ければ今の私は有りません。
そして今の私を導いてくださったお上人の霊廟に参れてよかったと思いました。
自分なりに感じた事はお山の先生から「君は僧侶ではなく、半僧半俗の修験者なのだよ」という言われた事についてしみじみと感じた事です。
ただ願人坊主というのは明治に禁止されているので意味が通じないので修験者と言うのが一番いいのかもしれませんね。大学に入るのに確認してもらったら天台宗修験道法流の末席に籍は有るそうですし。
最近ネタにしない修験道焼き芋流の大先達が言っていたそうです
「山伏は山に伏すから山伏だが、里におればただのホームレス」
と…
毎朝Twitter(X)に朝の挨拶を流す振りしながらBOTに抽選させた文句が流れるようにしています。
今朝はこれでした↓

過去触れ返らず自分らしく生きなきゃと思った次第です。ちなみにこの挨拶は他に私の好きな日蓮大聖人の御書の一節、易経、伝教大師、今東光、林原めぐみ等のお言葉がランダムに流れます。
話を戻して…
お参りから自坊に戻って思ったのは自分は僧侶ですというより修験者ですと伝えることから始めた方がいいなと思った事です。
私は組織の中に居られる人間ではないと思っております。法友の御師僧様でもあった神峯山寺先代住職から
「あなたは俗世間で人を導く俗の聖ですね。何?自称願人坊主やってるの? それはいい 寺じゃなくて俗世間に生きる行者になりなさい」
と言われたことが有りました。
あえてスクショ貼りますけれど…今まで逡巡してきた事


釈迦寺の影山上人のお言葉や法友の師僧の言葉を噛みしめて私は俗にいる願人坊主というても通じないので修験者でいたいと思いました。
私は影山上人のお言葉は法灯明・自灯明として生きることを教えてくださったのだと思います。
なので坊さんごっこやめて正しい教えの白蓮の漢訳の妙法蓮華経に帰依しながら生きていきます。
最初から読み直して同じ話が二回出ているけれどそのままにしておきます。
締まりのない文章ですみません…
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