働かざる者食うべからずと言うけれど…元不登校・引きこもりの僧侶として思うこと…

不登校・引きこもり

先日、 福祉仏教全国連絡協議会のZoom座談会があり超宗派のお坊さんが、「働かざる者は食うべからずという言葉についてどう思うか?」という質問について2時間語り合いました。

所長は不登校・引きこもりの当事者として意見を言おうと思いながらもうまくまとまらず…

働かざる者食うべからずから思い出したのが、日蓮大聖人の松野殿御返事

受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし

松野殿御返事 日蓮

という、御書の一節です。今でこそ天台宗の修業して天台系の和宗寺院の客分として関東の布教所の所長をしていますが…私の生まれた家は明治時代の御本尊を祀る日蓮正宗の旧信徒家系で途中から日蓮本佛論への疑問から離脱して流れ流れて天台宗に亡命した身なので…行院で習った事以外は日蓮教学の中でも富士門より本門八品流の入り口程度しか知らない身ですけれど…

そんな感じで小学校しかまともに出ていない私に難しい話をしろというのは無理な話ですが…松野殿御返事の法師の皮を着た畜生という言葉は私的には宙ぶらりんで願人坊主でしかない自分には働かざる者食うべからずと重なって見えてきました。

そういう事を考えながら出た言葉は「寅さんの生きにくい世の中ですよね」でした。本人の心持ちもあるのかもしれませんが、どこか生きにくい世の中というのか…半端者という表現はよくないですけれど、社会に適応が難しい人たちヘの風当たりが厳しいような気がします。かく言う私もドロップアウトしてますから…自己肯定感が無いというべきなのかもれしません…

その自己肯定感って小学校で算数が苦手で計算は今もしなくていいならしたくないのですが、それが原因で私は打ちのめされ比叡山行院でるまで自己肯定感が無くて生きている事自体が辛かったのです。 

中学時代に不登校の治療で通ったある大学病院の心理テストの中で小3の算数ができなくて「こんな簡単な小学三年の計算も出来ないなんて…貴方は生きてる価値がないですね」と言われた事から負った心の傷は深くて十七歳位かな発狂した事もあります…

心をえぐる傷は治すにしても本人が治そうと自覚して行動する以外治しにくいと私は感じています。比叡山の修業で私の場合は拝んでいて走馬灯のように脳内スクリーンに生まれてから道場入るまでの嫌だったこと、悲しかったことが再生されまして…感情失禁になってました…これが世にいう因縁の洗い出し(?)なのかなとか考えたり…

脱線しますけれど最近はあまり聞かなくなりましたが、「あなたが不幸なのは過去世からの因縁です」と判りもしない因縁論についてそれは本人がそういう物があるという自覚を持って修行に励むときに言うのであって他人様に言う物ではありません。自戒を込めて…

話を元に戻しまして… 行院の四度加行の結願の日にふと今東光大僧正のCD法話の一言が頭に浮かんだのです。

神仏は無意味に生かせはしませんし、無意味に殺しやしません

極道辻説法 今東光

と…。そこから…

そうか、自分は生きている価値がないと思っていたけれど、神仏は生かしておく価値があるから生かせてもらってんだ

と思うようになってから私も生きていていいんだと思うようになりました。

ここまで来るまで色々とありました、世間知らずの引きこもりが今東光読みすぎて斜めに世の中を見る程壊れていたのを団体生活出来るようにリハビリをして下さったお上人がおられました、最後は根を上げてパワハラ指導になってしまい、私も心が折れて自殺するか亡命するかという処まで追い込まれて受け入れてくれないなら自殺しようと飛び込んだのが得度寺でした。今は香仙院の客分としてこうやって文章書いておりますが、在家時代の某学林専門学校進学の為のスパルタ教育があったからこそ比叡山行院という中学の自然教室以来の団体生活ができるようになりました。そろそろ地元の出奔したお寺に謝りに行かなきゃなと思っているのですが…上方のお世話になっているお上人が行くんなら付き添いで行くよと言われてますが…

って、また脱線していますね…

話を元に戻して今回の話を提案してくださった方から

障碍を持つ子を育てている親の身として『働かざる者は食うべからず』という言葉がありますが、親として言われると辛いです。どう思いますか?(意訳)

と言われたことが始まりです。

私も普段は僧侶じゃなくてヘルパーとして介護の現場にいます、失礼な言い方かもしれませんが介護の現場での仕事はお世話することです。利用者さんが居なかったら私は生活できません。少なくとも働けなくても雇用の機会を作っているのだからそれも仕事では?と私は考えています。怒られるかもしれませんが…

働かざる者くうべからずについては私は正直なところよくわからない。だけど生きる価値より生かされてる価値は有るんだろなと仏様にすがる私です。 遊戯雑談しかしない法師の皮を着た畜生ですからというしか無いかなと思っています。

締まりのない文章ですみません。ツイッターでこのブログの下書きも兼ねて書いた文章とフォロワーのまっちゃん居士のリプを貼らせていただきます。


6月7日追記

家族との会話で思い出さなくてもいい十代に「某大学病院で生きている価値が無い発言」をされた事を思い出してしまい… 過去に書いたこのブログの続きを書く勢いだったのですが…世界はまだ君を知らないがスマホから流れて来て…

二番の歌詞に心が洗われまして…

がむしゃらじゃなくていい 今のやり方がある

君はもう大丈夫 誰とも違うのだから

世界はまだ君を知らない 國府田マリ子

十代から東光坊春聴大和尚と声優の國府田マリ子大姉を心の支えとして生きておりますが、特に僕らのステキ、HappyHappyHappyと大姉が寄り添ってくれている歌たちがありました。

この曲はコロナ過の生活から書かれたと聞いておりますが、どの曲よりも私にはしっくり来るものがありました。

比叡山行院で自分は神仏から見たら生かしておく価値があるんだろうという気持ちまで到達しましたがいったりきたりの繰り返しでおりますが…やっと自分を認めてあげていいんだという気持ちになれたのは國府田マリ子大姉のお蔭です。本当にいつまでもに大姉に依存せず自灯明として生きていけるよう精進せないかんとは思ってます。

何時も言いますけど私は法師の皮を着た畜生で自分が救われたいから信心しているのであって他人様を導くみたいなことは無理なんで…

ただ共に仏様の元に行きましょうという方がいる事に感謝なのです


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